下栗山妙楽院法光寺(しもぐりさんみょうらくいんほうこうじ)

文亀元年(1501年)創建 (下栗の土豪、常楽寺氏の菩提寺でした。)され、天正年間(1573~92)に現在地に移ったとされています。

境内東側の墓地に、花崗岩製の高さ120cmを計測する五輪塔があります。

明治40年7月に境内より発掘された鎌倉時代の板碑も二基あります。

いずれも中世の代表的な石造りもので下妻市指定の文化財となっています。

900年前、赤須四郎平将基(まさもと)の軍旗に描かれていた2匹の幡竜の掛け軸もみのがせない歴史の証人として残っています。


 

五輪塔

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五輪の塔とは上から空輪、風輪、火輪、水輪、地輪の五つの部分から構成され、密教的世界観にもとずいてつくり出された中世の代表的な石造り様式のひとつです。法光寺の五輪の塔は戦国時代の「常楽寺氏」の供養塔とも伝承されていますが、形状からそれよりも古い南北朝時代の頃のものと考えられています。
下栗の歴史を示す貴重なものです。
高さ約120cm  花崗岩製。


板碑

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(左)写真では見えにくいが、中央に「正中三年(1326)五月十二」ノ銘文が判読できる。
(右)中央に「南無阿弥陀仏」と名号がきざまれている。名号下に加元(嘉元)二(1304)七月廿と銘文がある。両側には光明編照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨の偈が刻まれる。
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豊田軍旗の幡竜

900年程前の本当にあった?お話のはじまりはじまり~。

法光寺の近くを鬼怒川が流れ、川を行き交う船頭達はその昔、豊田氏の軍勢が旗を掛けたという「旗掛けの松」を見て鬼怒川を航行する目印にしていたという。
この名物の松は高さ25メートル、太さは大人4人で抱える程あったというが、昭和17年の落雷で焼け、今は孫松の若木が往時をしのばせている。
この豊田軍旗には「戦記物語」が有る。
今から900年程前の事、「後三年の役」で、川曲郷赤須(下妻市)の赤須四郎平将基は、陸奥守源義家陣に馳せ参じた。彼は最上川の戦いで、増水の為川が渡れず困っていた義家軍の先頭に立ち、檄を飛ばして川を渡り清原家衛(いえひら)を撃った。この時、将基(まさもと)の軍旗に描かれた2匹の幡竜が旗から抜け出て義家軍を奮い立たせたという。
この戦功により、将基(まさもと)は、豊田郷(石下町)を恩賞に貰い、19代480年続いた豊田氏の祖となったと言います。
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現存しているのは、軍旗の幡竜の顔の部分だけです。